登城日:2016年8月26日
東九州自動車道に入り、南へ南へ。
目的地は、弟が住む宮崎県延岡(のべおか)市。宮崎県の中では、北東の海岸沿いに位置します。
延岡市内には15時に到着しました。ホテルのチェックインまで、かなり時間があります。
家族は市内のイオンで時間をつぶすとのことですが、一人別行動をとらせてもらい、いざ延岡城見学へ!見学時間は無いと思っていたため、ラッキーでした(^_^)
延岡市内には多数の河川が流れています。
ここ延岡城は、北の五ヶ瀬川(ごかせがわ)と南の大瀬川に挟まれた地に築かれていました。
河川を「天然の堀」として防衛に利用していた事例は、以前に紹介した松江城や高知城や大洲城など、各地で見られます。
写真は、大瀬川越しに南から撮影した延岡城です。
延岡城の北東面に石垣が残ります。
現在延岡城は、「延岡城跡 城山公園」として整備され、市民の憩いの空間となっています。
こちらは、北大手門です。平成4(1992)年に、発掘調査の成果や絵図史料をもとに、復元されました。堂々とした、佇まいです。
さぁ、大手門をくぐって、石段を登っていきます!正面に見えるのは、本丸の石垣。そして、進行方向に向かって右手には、二の丸が広がります。
おぉ!そそり立つ、高石垣!
非常にたくましくワイルドな印象の、野面積み(のづらづみ)の石垣です(^_^)
ウソかまことか、この本丸の石垣は、一番下の礎石を取り外すと全体が崩れ落ち、一度に1000人もの敵を圧殺することができると、伝えられています。別名「千人殺し」。
(でも、石垣を崩してしまうと、お城を守備する側も困るんじゃないの…)
北大手門をくぐり、まっすぐ進んで右手、本丸の西側の位置には二の丸広場が広がっています。発掘調査か、公園整備事業か。役所の車両が何台も停まっていました。
さぁ、「千人殺し」本丸石垣の脇の石段を登り、いざ本丸へ参ります!
ところどころに、雑草が目立ちます。生い茂っているなぁ…。
石垣の保全のためにも、定期的な除草が必要でしょう。予算の関係で難しいのかも知れませんが…。
ここを左に折れれば、もうすぐです。
あの石段を上がれば、本丸に突入!
江戸時代には、この辺りに、二階門櫓(にかいもんやぐら)があったそうです。
以前に訪問した、愛媛県松山市の松山城の筒井門(つついもん)のような櫓門(やぐらもん)が、侵入者の行く手を阻んでいたのでしょうね。
※(参考)松山城の筒井門
さて、ここで延岡城の歴史を紹介しましょう。
延岡城は、慶長6(1601)年に、高橋元種(たかはし もとたね)が築城に取りかかり、慶長8(1603)年に完成します。丘陵を利用し、石垣や瓦屋根の櫓をめぐらせ、天守が堂々とそびえ立つ、近世城郭が誕生しました。関ヶ原の合戦と大坂の陣の戦間期で、全国的な築城ラッシュの時期にあたりますね。
しかし元種は、大坂の陣の直前に改易(とりつぶし)されてしまいます。その後、幾人かの大名が延岡の地にやってきましたが、延享4(1747)年に内藤政樹(ないとう まさき)が入封してからは、明治維新まで内藤家が延岡藩を支配します。
明治10(1877)年の西南戦争の時には、延岡の町は一時的に西郷隆盛ひきいる鹿児島士族軍に占拠されました。この時、延岡の住民は鹿児島軍に協力的だったようです。住民に恩義を感じた鹿児島軍の司令官・野村忍介(のむら おしすけ)は、戦争終盤に政府軍が延岡に迫ってきたときに、住民に被害が及ばないよう市街戦を回避する作戦をとりました。
この辺りの経緯は、中公新書の 西南戦争 [ 小川原正道 ] に詳しいです。西南戦争勃発の背景や、開戦後の経過が詳しく述べられていて、面白かったですよ。
本丸は広場になっています。
「忠魂碑」や「殉国慰霊塔」などのモニュメントが残っていました。戦前には、軍国主義絡みの顕彰施設として、活用されたのでしょう。
このような形の城址の活用は、護国神社が築かれた臼杵城のケースと似ている気がします。
本丸の東側には、さらに一段の高台があります。これが天守台です。ただし、ここには天守は無かったみたいです。
天守台は、かなり広大でした。東の隅には、鐘つき堂があります。城山公園のリーフレットによると、明治11(1878)年から今日に至るまで、時報鐘として使われているとか。現在の鐘は、二代目です。
天守台から南を望む。天気が良いので、遠くまで見晴らせます。
天守台を東に下ったふもとに、三階櫓(さんかいやぐら)跡の石垣があります。ここに建てられた三階櫓が延岡城で一番大きな建物で、天守に代わって、お城の権威の象徴として機能しました。
しかし、三階櫓は天和2(1682)年に火災で焼けてしまい、それ以後は再建されることはありませんでした。
下から見上げると、やはり大きいなぁ。
ところどころに石垣が残っています。
ただし、明治維新の時代から今日までの公園整備の過程で、破壊されたり改変されたりした石垣も、少なくないのかも知れません。
この石垣なんかは、古そうな気がしますね。
本丸や三階櫓の北西ふもと一帯には、三の丸が広がっていました。
庭園として整備されているところもありますね。
三の丸の西側。
うっそうと木々が生い茂る中に、堅牢な石垣があります。石垣は、途中から天然の岩盤に変わっています。
ここはお城の搦手(からめて。裏口のこと)にあたり、石御門(いしごもん)と言う門が建てられていました。
ほかに、三の丸には、明治・大正時代に活躍した歌人・若山牧水(わかやま ぼくすい)の歌碑がありました。牧水は、青春時代を延岡の地で過ごしました。
国語の教科書や便覧で、牧水の作品に親しんだ人も多いのではないでしょうか?
気がついたら、そろそろ16時。お城を出て、宿泊先のホテルに向かいます。
石垣が多く残っていて、楽しめましたねぇ…(^_^)
もっとあちこち散策が出来ていたら、更なる発見がありそうでした!
北に向かって歩きます。ホテルに到着したのは16時半。家族はすでに到着して、くつろいでいました。
18時には、弟と合流し、久しぶりに家族そろっての夕食です(^_^)
さぁ、宮崎と言ったら、名物・チキン南蛮でしょう!
夕食は、弟の案内で、チキン南蛮で有名なお店に連れていってもらいました。なんでも、「チキン南蛮の発祥」と言われているそうです(発祥元は複数の説がありますが)。衣がサクッとして、美味でした!タルタルソースがかかっていないことにビックリ。こんなのも、あるのか。
翌27日は、合流した弟も連れて、宮崎県内陸部の高千穂町にある、国の名勝・高千穂峡を堪能。10万年ほども昔の阿蘇山の火山活動の溶岩流が、この絶景を作りだしたそうです。
有名な真名井の滝(まないのたき)。神々しさすら感じます!
延岡市内に戻り、皆で昼食。
チキン南蛮定食です。ここのお店も、チキン南蛮の発祥地との説があります。濃厚なタルタルソース。昨日のお店と、甲乙つけがたい!
昼食が済むと、延岡に住む弟と別れ、関西に引き返す旅路に出ます。
今日の宿泊地は、北九州市門司(もじ)区。ホテルから少しの距離に、門司港レトロと言う観光エリアがあります。
この地は、明治大正のころに外国貿易で栄えていました。現在は、観光スポットとして商業施設なども設置され、100年ほど前と負けず劣らずの活況を見せているようです。
う~む。堂々として、立派な建物です。
お城も良いけど、西洋風の建築も魅力的ですね。
翌28日は、7時半には門司を出発し、関西に向けて帰るだけ。
運転運転、ひたすら運転。大きな渋滞に巻き込まれることなく、16時には帰宅できました(^_^)
いや~満喫した!
九州に行くのは、今回の旅行が初めてでしたが、とても穏やかな雰囲気で、のんびりした気分にひたれました!
別府温泉、臼杵石仏、高千穂峡、門司港レトロ地区…そして何より、臼杵城と延岡城への城攻め!旅行全体のスケジュールの制約で、城下町エリアの散策などは十分に出来ませんでしたが…次回のお楽しみに、とっておきます(^_^)
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おお!
九州に来られたんですね!
延岡城は今年中に行けたらいいなあ(﹡ˆᴗˆ﹡)
チキン南蛮おいしそう°.*\( ˆoˆ )/*.°