日本の城巡りブログ〜ぶらりBURARI〜

小谷城 遠征(後編)

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番所跡を通過し、どんどん登っていきます。本当に、け…けわしい…!

流石に、信長も攻めあぐねた天下の名城なだけはあります。


 

前方に見える小高い丘は、虎御前山(とらごぜやま)です。

虎御前山には、織田信長の手により城塞が築かれました。いわゆる付城(つけじろ)というヤツですね。付城とは、敵の城や砦を包囲・攻撃するための前線基地のこと。

こんな至近距離に前線基地を築かれて、24時間365日監視されるなんて、小谷城の城兵からしたら、たまったものじゃないな…。


 

しばらく上に歩くと、御茶屋跡という曲輪(くるわ)に到着します。

曲輪とは、土塁や石垣によって区分された、ひとかたまりのエリアのことです。

木々が、うっそうと生い茂っていますが、明らかに人工的に平らにされた空間です。


 

御茶屋跡の上段にあるのは、御馬屋敷跡という曲輪。

こちらも、かなり広々としています。

馬屋敷という名称ですが、ここで実際に馬が飼われていたかどうかは、諸説あるようです。


 

御馬屋敷跡の入口部ある、くぼんだ石組み。馬洗池跡です。

こんな高い場所まで登り降りするんだから、馬さんだって大変だよなぁ…。そりゃあ、水浴びだって必要だよなぁ…。

…などと思いながら見学しましたが、この直後に目にした案内板によると、実際には、防衛の目的で設けられた堀だったようですね(^_^;)


 

御馬屋敷跡の更に上には、桜馬場跡という、北東から南西にかけて細長く伸びた曲輪があります。

こうして登ってみると、いくつもの曲輪が段々に配置された、堅固なお城であることがよく分かります。


 

桜馬場南西端からの展望。たいへん素晴らしいです(^_^)


 

桜馬場跡のすぐ近くにあるこの岩は、首据石(くびすえいし)

上の部分が、平たくなっているのが分かります。

織田信長浅井長政の戦闘から、さかのぼること40年。天文2(1533)年、浅井氏初代の亮政(すけまさ)が、敵方と内通していた家臣を討ち取って、首をこの岩の上に置いて晒したと伝えられています。怖いよ…。


 

首据石のある場所から、まっすぐ進めば本丸跡に到達しますが、まずは左手に進みましょう。

しばらく細長い通路が続いていて、道なりに歩いていくと、広い空間が目に飛びこみます。

 

この場所は、浅井氏の重臣・赤尾氏の屋敷があったと伝えられる場所と伝えられる場所。

個人的には、「いくら重臣とは言え、こんなに本丸に近い場所に、家臣が屋敷なんて置いていたのかな?」という疑問を感じますが、果たしてどうだったのでしょうね。現在我々がイメージするよりも、戦国時代における主君と家臣の関係性は、フラットに近いものだったのかも知れません。


 

浅井長政の供養塔がありました。

記録によると、本丸から出陣して織田軍との最後の勝負に打って出た長政は、織田軍の猛攻を前に赤尾屋敷に退却。ここで自刃して、29年の生涯を終えました。


 

もと来た道を引き返し、首据石まで戻ってきます。

そこから少し直進したところには、黒金門(くろがねもん)跡があります。石垣・石段が、僅かに残っています。

まだ当時は、お城に石垣が用いられるのは珍しいことでした。それにも関わらず、ここに石垣が設けられていることは、この場所が小谷城の心臓部を守護する重要な門だったからに、ほかならないでしょう。


 

黒金門を抜けたら、広大な平地が広がります。長さ約85メートル、幅約35メートルもの広大な曲輪。大広間跡です。別名、千畳敷跡

その名のとおり、ここには大きな御殿建築が建っていたのでしょう。

浅井長政や、長政の父・久政の時代の文献史料によると、小谷城が政庁として機能していたことがうかがえます。籠城戦のためだけに使うお城ではなかったのです。浅井氏と関係の深い越前国(現在の福井県)の朝倉氏の場合は、日常生活や政務は一乗谷の居館で行い、籠城用のお城は別にあったようです。両者の違いの比較も、面白そうですね(^_^)

 

 

さぁ、見えてきました!本丸跡です。

大広間跡の奥に、一段高く盛り上がった曲輪が見えますよ!

ここには、天守に相当する大きな楼閣が建っていたと考えられています。

そういえば、彦根城の西の丸三重櫓が、小谷城の天守を移築したものと言われていますね。あくまで伝承ですが。


 

わずかに石垣が残っています。加工しない自然石を豪快に積み上げた、野面(のづら)積みの石垣です。


 

本丸を登ったところから、大広間跡を臨みます。

こうして見ると、本当に広いですね。かつては、ここに無数の建物が建ち並んでいたのでしょう。


 

ここ本丸のあたりで、軽く昼食を摂りました。

三人とも、ずっと歩きっぱなしですっかりヘロヘロ、逆に食事ものどを通りません(^_^;)

 

 

…さて、ここで、小谷城と浅井氏の歴史を振り返ってみましょう。

 

浅井氏は、もともとは、近江国浅井郡丁野郷(現在の滋賀県長浜市の南部)付近を本拠とした在地領主で、近江国北部の守護大名である京極氏の配下にありました。

浅井氏が本格的に歴史の表舞台に登場するのは、16世紀の前半、浅井亮政(あさい すけまさ)の時です。亮政は、主家である京極氏の家督争いに乗じて力を伸ばしました。二代目の久政(ひさまさ)の代には、京極氏の反撃や近江国南部の大名・六角氏の侵攻などで、不安定な状態が続きますが、三代目の長政(ながまさ)の時代に戦国大名としての地位を確立します。長政は、京極氏や六角氏の影響力を完全に排除し、急速に力をつけてきた尾張国(現在の愛知県)の戦国大名・織田信長と同盟を結びます。

 

前途洋々に見えた浅井氏ですが、元亀元(1570)年、織田信長が越前国の朝倉義景を攻めたことで、大きな転機を迎えます。長政は、信長との同盟を破棄し、朝倉氏とともに信長を攻撃します。戦いは、断続的に行われ、足かけ3年にも及びましたが、天正元(1573)年、ついに落城。久政・長政親子は自害し、ここに浅井氏三代の栄華は終わりを迎えました。

 

 

小谷城の中心部である本丸まで到達した訳ですが、実はまだ先があるのです!

本丸の更に奥には、中丸(なかのまる)という曲輪があります。中丸は、三段の平地で構成されています。写真では分かりにくいですが、現地では、段々になっている様子がハッキリと確認できたよ!


 

中丸にも、石垣が残っています。


中丸跡を抜けて、京極丸跡、小丸跡を通過。

山王丸(さんのうまる)跡という曲輪に到着しました。

この曲輪には、浅井氏とゆかりのある山王権現(さんのうごんげん)を祀る社(やしろ)がありました。


 

山王丸跡の先にあるのが、六坊(ろくぼう)跡。ほんの少し、石垣が残っています。

ここには、浅井氏の領地内にあった6つの有力寺院の出張所があったと言われています。

先ほど通過した山王丸跡にしてもそうですが、「お城」と「宗教施設」の繋がりは、興味が尽きませんね(^_^) 改めて、ちくま新書『寺社勢力の中世(伊藤正敏著)』と、岩波新書『戦国と宗教(神田千里著)』を読み返してみます。


 

気がついたら、もう14時半。そろそろ下山しなきゃ。

来た道を引き返すのではなく、六坊跡で左に折れて、そのまま清水谷を下っていくルートを選択します。

下り道の方が、上り道よりも、遥かにしんどいんだぜ…!


 

ここ清水谷の深部には、浅井氏の重臣達が屋敷を構えていました。「よくもまぁ、こんな不便な場所に…」と、驚きを隠せません。

石垣などの遺構がよく残っている屋敷跡地もありました(^_^)

この石垣、高い場所にあるから、見学のときは注意が必要だぞ。


 

か…帰ってきたぞ!大冒険だったぞ…!

時間はすでに、15時10分。3人とも、ヘトヘトです(^_^;)


 

 

まだ解散するには早いので、少し寄り道します。

滋賀県犬上郡多賀町にある、河内風穴(かわちふうけつ)という鍾乳洞に向かいます!

車を飛ばして、16時20分ぐらいに現地到着。

 

洞窟の入口は、有料駐車場から少し歩いた先の、小高い山の中腹にあります。

景色を楽しみながら、ゆっくりと向かいましょう。

ご覧ください。いわばしる清流。風光明媚。


 

入口に到着。めちゃくちゃ狭いです。


 

中は、ひんやりとしていて気持ちがいい(^_^)

石段を下っていくと、だだっ広い空間に到達します。


 

『ドラクエ』のダンジョンみたいです。モンスターが出てきそう。


 

河内の風穴、日本でも有数の巨大な鍾乳洞だそうですが、公開している部分はほんの一部です。山口県の秋芳洞のような長大な見学ルートを想像したら、肩すかしを食らいます。それでも、本当に凄いんだぞ。


 

JR彦根駅に、2人を送っていき、それから帰途につきました。

 

いや~今回は大冒険だった…!

天寧寺佐和山遊園小谷城河内風穴…と、立て続けに回ったもんな。

特に、小谷城の険しさは半端でなく、かなり消耗しましたよ。

でも、友人達と語らいながらのお城探訪は、とても楽しくて有意義な時間となりました(^_^)

実は、足を伸ばせなかった曲輪もあるので、いつかリベンジするぞ!

 

 

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