登城日:2011年9月19日
ふだんは孤独な一人旅・貧乏旅を味わっている僕ですが、時には、大勢でワイワイ賑やかな旅行を楽しむこともあるのです。
今回は、大学時代の仲間7人とともに出かけた、丸岡城と一乗谷(いちじょうだに)遺跡を紹介します。こういう旅行は、基本的にお城めぐりがメインの目的ではありません(たいてい、僕がわがままを言って、お城をプランに組みこんでもらう)。なので、今回の記事は青春チック?な旅の記録が中心で、お城要素は控えめです。たまには良いでしょう(^_^)
出発は9月18日。この日の目的地は、福井県坂井市の名勝・東尋坊(とうじんぼう)です。
大阪在住組4人は天王寺で車に乗り出発。残る滋賀方面組4人とは、11時に滋賀県北部の賤ヶ岳(しずがだけ)で合流しました。
12時半に到着です。こちらは、おみやげ街。
まずは腹ごしらえ。皆で海鮮丼を食べます。すっごく、うまひょ~!
見よ、この絶景!
凄まじい断崖絶壁!
タイタニック!?せめて、海側を向けよ…
ちょっとマジメな脱線。東尋坊は「自殺の名所」として知られています。こういうイメージを地元も何となく受け入れてしまい、観光客向けの説明などに「活用」していきた経緯があったようです。しかし、過去のこういったアピール方法に対する反省・批判の声も。
斎藤貴男著『強いられる死-自殺者三万人超の実相』は、日本における自殺問題に迫ったルポルタージュですが、東尋坊において自殺志願者を水際で食い止める活動を続ける地元NPO法人「心に響く文集・編集局」の紹介もしています。考えさせられました…。
さて、15時半には東尋坊を出発。18時過ぎに、あわら温泉の「あわらの宿 八木」に到着。ロビーが豪華!
温泉街なので、当然ながらお風呂も豪華です。夜は、賑やかに酒盛りでござるよ~(^_^)
さぁ…夜が明けて、19日。今日は、お城めぐりツアーです!10時前には宿をチェックアウトし、福井県坂井(さかい)市の丸岡城に向けて出発!雨がパラついたりやんだり…変なお天気です。
宿を出て、40分ほどで到着。見えてきました。いかにも武骨な、「戦国の城」全開です!
パシャリ!集合写真。アングルを変えたら、天守の雰囲気も変わりますね。
これは、かつて天守の屋根に乗っかっていた石で出来たシャチホコ。現在のシャチホコは木製です。
丸岡城の屋根瓦は、福井市の足羽(あすわ)山から産出する「笏谷石(しゃくだにいし)」で作られています。天守を近くで見たら分かるけど、ホント重厚な印象です。
丸岡城は、天守以外の遺構はほとんど残っていません。ほかには、わずかに石垣の跡が見られる程度。野面積み(のづらづみ)という、古い時代の積み方です。
苔むしている。
古い様式を伝えているのは、石垣だけではありません。天守の建築時期は、古く戦国・安土桃山時代にまで遡ると考えられます。頑丈な石瓦・張り出した石落とし・質素な装飾…などなど、実戦を意識しまくった時代の城だということが分かります。
さぁ、天守に入りましょう。石垣が高いので、階段を上るのも、ひと苦労やね(^_^;)
中の階段の傾斜は、恐ろしく急です。
最上階からの見晴らし。
丸岡城は、天正4(1576)年に、織田信長政権の長老である柴田勝家の甥・柴田勝豊によって築かれました。ちなみに、柴田勝家が築いた北ノ庄(きたのしょう)城(現在の福井市にありました)も、丸岡城と同じく笏谷石で出来た石瓦を用いていたそうです。非常にスケールの大きなお城でしたが、天正11(1583)年、勝家は賎ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北し、北ノ庄城は主人と運命をともに…。
柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされた後も丸岡城は生き延び、幾多の大名が居城としました。明治・大正・昭和にかけて、少しずつ建物は壊され、堀は埋められ…と苦難の歴史を歩んできましたが、天守だけは大切に守られてきました(^_^)
歴史民俗資料館も見学。展示方法に、もう一工夫ほしい…。
小振りながら、戦国時代の荒々しい気風が「ギュギュッ」と凝縮された丸岡城。見学しただけなのに、城内に充満する武士エナジーを吸入したためか、なんだか強くなった気がします!
正午前には出発です。さぁ、次なる目的地へ!
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