日本の城巡りブログ〜ぶらりBURARI〜

臼杵城 遠征(後編)

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登城日:2016年8月26日  <関連記事: 臼杵城 遠征(前編)

 

さぁ、いよいよ登城開始です!

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橋を渡って城内へ。

この橋は古橋と言い、こちらからの入口を古橋口と言います。戦国時代は、臼杵城内への出入口はここ古橋口だけでしたが、江戸時代になってから、少し北側に新たに今橋と言う橋が架けられ、そこからの出入りも可能になりました

臼杵城28

 

橋を渡ります。

おや、お城の入口に、どうして鳥居が?その理由は、中に進めば明らかになります。

臼杵城29

 

自然が作った岩盤と、人間が作った石垣。「天然」と「人工」の絶妙な混淆(こんこう)。調和。なんと素晴らしいことか。

臼杵城30

 

登城道から、畳櫓(たたみやぐら)を望む。

櫓の下あたりの岩盤は、コンクリート?で補強しているようです。どうしても違和感はありますが、これも安全管理上、必要な措置でしょう。

臼杵城31

 

このアングルは、なかなか良いな。樹木で市街地が隠れています。

臼杵城32

 

クネクネした石段を登っていく。

右手に見える土塀は、近年の復元です。

臼杵城33

 

登城道の石段を登り続けると、右手に畳櫓が見えてきます。これは江戸時代から現存する貴重な建物です。一階と二階の床面積が殆ど変わらない、重箱櫓(じゅうばこやぐら)という珍しい様式です。

古写真や絵図史料によると、畳櫓のすぐ背後に、一回り大きな井楼櫓(せいろうやぐら)がありました。こちらも、畳櫓と同じ重箱櫓の様式だったみたい。

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畳櫓を左に折れると、二の丸を守護するメインゲート・大門櫓(おおもんやぐら)が目に入ります。

敵兵が大門櫓を抜けて二の丸に突入するためには、曲がりくねった登城道を登り、登った先のコーナーにそびえる、畳櫓や井楼櫓からの攻撃を突破しなければなりません。防衛上の工夫です

臼杵城35

 

大門櫓を北側からパシャリ!いい感じ。

ちなみに大門櫓は、平成13(2001)年に復元されたものです。

臼杵城36

 

正面からもパシャリ!

ここで、臼杵城の構造について説明します。臼杵城は、東西に細長く伸びたプランでした。一番西側に、南北に細長い帯郭(おびぐるわ)が二の丸を取り巻いています。帯郭の東奥に広大な二の丸があり、さらにその東奥に本丸がありました

いま写真を撮っているこの地点は、帯郭です。

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大門櫓をくぐり、二の丸へ。かつて、ここには御殿がありました。今は、市民の憩いの空間になっています。

僕以外の家族は完全にお疲れモード。日陰で休憩です。そのあいだに散策!

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これは、古くから残る建物ではなく、おトイレですぞ。厠ですぞ。

臼杵城39

 

二の丸から、南に広がる市街地を望みます。

戦国時代や江戸時代には、ここは大海原が広がっていたのでしょうね。

臼杵城40

 

こんな立て看板が。

「公開中でも景観保持の為、転落防止柵は設置致しません。」

要は、自己責任で安全に見学しなさい、ということですね(^_^;)

臼杵城41

 

二の丸の東の方に、臼杵城を築いた戦国大名・大友宗麟(おおとも そうりん)のレリーフがありました。光の加減で、かなり見にくいですが…。

臼杵城42

 

ちょうど良い頃合いなので、ここで臼杵城の歴史について紹介しましょう。

大分県東南部の臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうしま)。ここに、豊後国(今の大分県)の戦国大名・大友宗麟の手によって、臼杵城は築かれました。

時に永禄5(1562)年のこと。ここ丹生島は、東・南・北を海に囲まれた天然の要害で、お城を築くのにもってこいの場所だったのでしょう(現在は、周囲は全て埋め立てられています。)。城下町も同時に築かれ、南蛮貿易やキリスト教布教の一大拠点となりました。

晩年の宗麟は、豊臣秀吉の軍門に下りますが、彼の跡を継いだ義統(よしむね)の代に、大友氏は改易(とりつぶし)されてしまいます。その後、幾人かの領主を経て、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後に、稲葉貞通(いなば さだみち)が入城。この時、石垣などを備えた近世城郭に改築されたと考えられています。その後、明治維新の時まで、稲葉氏が臼杵藩を支配し続けます。

 

さて、この臼杵城ですが、過去に2回に渡って、薩摩国(今の鹿児島県)の軍勢から攻められています。

一度目は、天正14(1586)年。押し寄せる島津軍に対して、籠城する大友軍は、ポルトガル商人から購入したフランキ砲と呼ばれる大砲で応戦。島津軍を震えあがらせ、これを撃退します。

二度目は、明治10(1877)年の西南戦争の時。西郷隆盛の率いる鹿児島士族軍が攻めてきました。この時は、前回とは逆に火力で圧倒され、落城してしまいました。

なるほど。300年越しの雪辱…か…。

 

 

宗麟のレリーフの脇には、島津軍との合戦で宗麟が使用したフランキ砲のレプリカが飾ってありました。

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う~む、カッコいい!攻め込んできた島津軍も、これには面食らったに違いありません。

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二の丸の北側の一画には、臼杵護國神社(うすきごこくじんじゃ)があります。お城の麓に鳥居があった訳が、これで分かりましたね。

この神社は、西南戦争後の明治11(1878)年に、西郷軍と戦い命を落とした43名の旧・臼杵藩士を地元の有志が祀ったことに始まります

しかし、考えてみれば皮肉なものです。戦国時代や江戸時代に、武家政権の権威の象徴であったお城の跡地に、現在は、武家政権を倒した明治政府のために命を落とした人達を祀る神社が建っているのですから

臼杵城45

 

ではそろそろ、二の丸を出て、本丸に進みましょう。

 

これは、二の丸と本丸の境目にある空堀(からぼり)。水が入っていない堀ですね。ものすごく植物が生い茂っています。季節柄、植物が繁茂しやすいのでしょうが…安全管理上も、景観上も、きちんと伐採した方が良いと思います(^_^;)

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二の丸と本丸のあいだには、かつては櫓門(やぐらもん)があり、その名も鉄門(くろがねもん)と呼ばれていました。今は、石垣だけが残っています。

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本丸は、現在はグラウンドとして整備され、市民に利用されています。

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こちらは、本丸の北側にある天守台の石垣です。草がボーボー。

城下町(お城の西方面)から見ると、臼杵城の本丸はかなり奥まった位置にあるため、天守はよく見えなかったのではないかと考えられています。

臼杵城49

 

こちらは、本丸の東南部、搦手口(からめてぐち。裏口のこと)にあたる卯寅口(うとのくち)の周辺にあった、卯寅口門櫓(うとのくちもんやぐら)。この櫓も、江戸時代からの現存です。

江戸時代には、現在は住宅地になっている丘陵の麓は海でした。海側から攻めてくる外敵にニラミをきかせる、重要な役割を果たしていたのかも知れません

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一度、城外に下りてから撮影。なるほど、最初に見た畳櫓と同様、重箱櫓の様式で作られていますね。

臼杵城51

 

40分程かけて、グルッと見て回りました。

家族も日陰で休憩して、すっかり回復した様子(^_^)

臼杵城をあとにします。

臼杵城52

 

臼杵を出発し、弟が住む宮崎県延岡市、そして延岡城に向かいます!

 

天然の岩盤と人間が築いた石垣が織りなす競演。とても素晴らしいお城でした!

ただ、まだまだ調査・整備が必要だと思われる部分も多いように感じられました。

それに、旅行全体のスケジュールの関係上、今回は城下町エリアの見学は一切できませんでした…これは残念(^_^;)

次回の訪問では、もっと時間をかけて、じっくりと、まちなか見学をしようと思います!

 

 

※おまけ。

25日に別府のコンビニで買ったアイスクリームです。

佐賀県に拠点を置く竹下製菓が製造。道理で、関西では見かけないわけです。

九州のアイスなのに、なぜ「おゴリまっせ」と関西弁なのか…?

思わず「なんでやねん!」と関西弁でツッコミたくなりまっせ(^_^)

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関連記事: 臼杵城 遠征(前編)

 

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